反省会

 今日は、自分自身実に17年ぶりの参加となる、特殊な院内会議に出席した。

 「デス・カンファレンス」。

 亡くなった患者さんに関する、事例検討会だ。

 2017年12月末に亡くなった患者さんについて、関連したそれぞれの職種に思うところがあり、開催することとなった。

 本ブログで過去二度にわたり取り上げた以下の患者について。

 70代前半の女性、右肺上葉原発の中枢型肺扁平上皮癌、上大静脈症候群、がん性心膜炎、両側がん性胸膜炎合併。

 前医で姑息的胸部放射線治療施行。

 当院で心膜癒着術、右胸膜癒着術、リハビリ施行。

 その後、放射線肺臓炎を発症して、ステロイド内服を開始。

 喫煙経験者、扁平上皮癌、放射線治療後、TPS 50%と、免疫チェックポイント阻害薬が効く条件は揃っていた。

 一旦退院して、放射線肺臓炎が落ち着くであろう秋になるのを待って、ペンブロリズマブを使用するつもりでいた。

 しかし、11月になると原発巣が増大して、かなりの気管狭窄を来たした。

 パフォーマンス・ステータスが落ちる前に、早くペンブロリズマブを始めなければ、と考えるものの・・・。

 万が一pseudo-progressionを招いたら、逆に気道閉塞を助長してしまう。

 近所の急性期病院の呼吸器外科の先生に泣きついて、その翌週にはステントを入れていただけた。 

 だが、不幸にもその直後に敗血症を発症し、治療が一段楽したときにはほぼ寝たきり、簡易気管切開、経鼻経管栄養の状態となっていた。

 不可抗力の経過だし、気道確保・窒息回避の目的は達した。

 しかし、払った代償は大きかった。

 抗がん薬物療法に臨める状況ではなく、ステント挿入前より遥かに悪化した全身状態を目の当たりにして、ご家族の態度は硬化していた。

 その状態で当院へ再転院してこられた。

 ステントを入れてくださった先生からは、以下のようなコメント。

 「かなりタフな経過を辿ったが、どうにか急場は凌いだ」

 「厳しい病状だが、どうかわれわれの心意気を汲んで、早期にペンブロリズマブを開始してほしい」

 「従来の抗がん薬と違って骨髄抑制の心配などはないのだから、PSが悪くても早く治療を始めるべきだ」

 本人:

 「リハビリをして体力を回復させてから、薬物療法を受けたい」

 「今のままでは薬物療法を受ける自信はない」

 家族:

 「今回入院してからは、正直言って状態が悪くなる一方」

 「これ以上本人の体を鞭打つような治療は受け入れられない」

 話し合いの結果、本人の意向を優先し、リハビリをして体力の回復を待って薬物療法を行う、という方針となった。

 しかし、体力は回復しなかった。

 気管の閉塞は回避したが、主病巣の再増大による両側反回神経麻痺・声門狭窄と上大静脈症候群の再増悪に見舞われた。

 そのため、離床・摂食嚥下訓練は進まず、呼吸状態は徐々に悪化した。

 意識障害も進み、抗がん薬物療法どころではなくなった。

 結局、本人の意向を確認できない状態で終末期医療に舵を切ることになり、年を越すことなく最期を迎えてしまった。

 以下、事例検討会での各職種の発言。

<担当医>

・効果が期待できる治療があり、その治療を患者も希望していた

・担当医として治療してあげたい一方で、PS不良のため再転院時点で治療適応はなかった

・患者本人、家族、担当医、ステントを挿入した医師それぞれに意向があったが、患者の意思を尊重することにした

・結果として不幸な転帰をたどった

・今から考えれば、リハビリをしてもPS改善はまず見込めない状況で、担当医判断で薬物療法に踏み切るか、緩和医療に徹するか決断するべきだったかもしれない

<担当看護師>

・とにかく患者の不安が強かった

・連日、深夜帯に何十回というナースコールが繰り返され、現場も疲弊していた

・もっと時間をとって患者の訴えに傾聴し、不安を和らげることができなかったかと思うと悔やまれる

<看護主任>

・後悔の残るケース

・本人の望む治療やケアを提供できたかと言われると、はなはだ疑問

・もともとが人目を気にするような性格の方だっただけに、最期には何もかもを他人に委ねなければならない状況で、かなり不本意だったのではないか

・途中まで見込みの乏しいリハビリに励んでいた人が、状態が悪化した途端に終末期医療に切り替わり、かと思えば中心静脈路確保をしたり、昇圧薬を使ったり、現場にはそこまでしなくてもいいのでは、という意見も少なからずあった

・最期の数日はこれまで見舞いに来たことのない人々がたくさん押しかけてくる一方、ずっとキーパーソンだった家族の対応が急に冷淡になり、家族との連携のあり方にも禍根を残した

<担当理学療法士

・医師の指示のもと、離床を進める努力をしたが、10分程度の車椅子座位をとらせるのが精一杯だった

言語聴覚士も、楽しみレベルの食事摂取が限界と考えていて、PS1まで回復させるような短期的な見通しはなかった

・血圧、脈拍が不安定で、一般の基準からすればリハビリを行うことすら難しかった

<担当ソーシャルワーカー

・もともと別府市外で独居生活を送っていた患者

・前回入院時は、自宅を引き払った状態で(退院後の住まいが決まっていない状態で)転院してきたため、ソーシャルワーキングを進めるのにかなり不安だった

・結果的に軽費老人ホームに入居し、たまたま郷里が近い職員がいたこともあり、本人は満足していた

・11月に病状が悪化するまでには身辺をきれいに整理しておられ、そうした点ではそつのない方だった

<看護師長・看護部長>

・当院に転院してきた当初から本人が病状説明に参加し、内容をきちんと把握していたようだ

・担当医と患者・家族の間の認識は、カルテを見る限りではよく共有されていたのではないか

・その認識を、医師以外の職種とも同じように共有できていたかという点には課題が残る

・ただし、一連のプロセスはちゃんとカルテ記事に残されている

・終末期のご家族の振る舞いは気になるところだが、おそらく半年、1年と時間がたつにつれて、後悔の念が増してくるだろうし、そのときにグリーフケアの観点に立って、出来る範囲で力になってあげなければ

 以上を踏まえ、担当医から追加のコメントをした。

・施設入所前のリハビリ入院の段階で、緩和ケア病棟への転医の選択肢も提示していたが、本人は当院の療養環境を気に入っていて、最期までここで見守って欲しいと常々話していた

・なまじ効果が期待できる治療があったために、終末期緩和医療への適切な移行時期を見誤ったのではないかと言われると、反論できない

・本人への意思確認が難しくなった段階で、家族の意向に沿って抗がん薬物療法を目指したリハビリから終末期医療に大きく舵を切ったため、そのプロセスが唐突に見えたのもその通りかもしれない

・キーパーソンがつい最近義理の父を亡くして、その後事にも忙殺されていたこと、自身の体調も崩していたこと、遠方から見舞いに来る高齢の親族の体調を慮っていたこと(中には見舞いの際に体調を悪くし、当院外来を受診していた人もいた)など、心身ともに余裕がなかったことが、最期の数日間の振る舞いに影響していたかもしれない

 今後の診療に当たっては、進行期のがん患者が入院した場合には、入院早期(入院から1-2週間以内)に多職種カンファレンスを行って、診療・ケアの方向性を相互確認することとなった。

 また、「デス・カンファレンス」については、今後継続して開催することになった。

 医療従事者にとってのグリーフケア、という意味でも、辛いけれどこうした振り返りをして、思いを吐露し、共有することは大切だろう。