誰がために・・・

 今日12月30日。

 巷には、27日で年内の仕事を追えて、暦通りに行けば9連休を満喫中、という方もいらっしゃると思います。

 私はというと、日中の通常業務を終えて、当直中です。

 新たな職場に移り、9ヶ月を終えようとしていますが、12人の肺癌患者さんを担当しました。

 新たに診断した方もいれば、前の職場から私のもとへ来られた方もいます。

 呼吸器内視鏡の指導をしている大分大学呼吸器内科で同期間に新たに診断した肺癌患者さんが40人強ですから、診療規模は縮小しましたが、滑り出しとしてはこんなものでしょうね。

 

 12人中、天寿を全うされた方が3人。

 それぞれ、若い方から81歳、84歳、100歳ですから、大往生です。

 

 年末年始を控え、終末期医療を行っている方が院内に3人いらっしゃいます。

 今日は、そのうちのお一方のご家族と、これからの治療に関して面談をしました。

 本人・配偶者とは年余にわたり、ことあるごとに面談を重ねてきたので、お互いに病状についての認識は揃っています。

 ただ、今回は初めてお目にかかる息子さんも面談に加わりました。

 面談の内容は「終末期医療を行うにあたり、具体的にどのような治療をするか」です。

 救命・延命措置は行わない、必要に応じて麻薬・鎮静薬を用いる、病状によっては死亡確認に誰も間に合わないかもしれない、など、いわゆる「悪い知らせ」が続きます。

 当然のことながら、SPIKESの流れを意識しつつお話をします。

 面談参加者の認識を揃える、「P」の段階でいつも困ります。

 患者さん・ご家族の認識がある程度揃っていれば、まだ話は進めやすいです。

 しかし、患者さんとご家族の認識が違っていたり、家族間でも認識の異なる方がいると、話がややこしくなります。

 どんなにまめに面談要旨を作って、家族間での情報共有を促していても、限界があります。

 直接顔と顔をつき併せて、何度も話し合って、言葉以外のことからもいろいろなことを感じ取る。

 そんなやりとりを長い間繰り返してきた関係を、たった一度の初対面の面談で、年末年始が過ぎたら住まいに帰ってしまうご家族と共有するのは、はっきりいって無理です。

 案の定、本人の意思と息子さんの意思はかみ合いませんでした。

 それぞれの意思をうまく尊重できれば言うことはないのでしょうが、

 「早く痛みや苦しみから開放して欲しい、眠りたい、楽になりたい、抗がん薬も内服薬もいらない」

という希望と、

 「延命処置はともかくとして、できるだけの治療をして1日でも長く生きて欲しい、使える抗がん薬があるなら使いたい、モルヒネやら鎮静薬やらはまだ使いたくない」

という希望と、同時に満たすのは無理です。

 完全に正反対の要求です。

 でも、こういう要求に、よく我々はさらされます。

 血のつながった息子さんだからまだ冷静に聞いていられますが、これが10年ぶりに地元に帰って来た遠縁の親戚の方だったり、一度もお見舞いに来たことがないような知人だったりすると、全身の血液が逆流するようなもどかしさを覚えます。

 「これまでの長い間の患者さん・ご家族の苦しみをあなたはどれだけ自分の経験として見てきたのか」

と言いたくなります。

 結局、誰がための終末期医療・緩和医療であるのかを、長い治療期間の中で患者さんを取り囲むみんなが理解しないと、解決しない問題なのでしょう。

 いつも患者さんのいうことが正しいとは限りませんが、患者さんが正しいことをいっているのか、そうでないのかを見極める眼力が必要です。