先祖を想い、家族をつなぐ

 何度でも繰り返すが、新型コロナウイルスは家族の絆を分断した。

 進行がんで患者が苦しんでいて、遠く離れた家族と今こそ互いに会うべきときなのに、自粛という壁が立ちはだかる。

 健康なときに家族を大切にしないと、いざというときに後悔することになる。

 今年に入ってから、世界中でどれだけの遺族が、死にゆく家族と一目会うことすらできずに、辛い別れを味わったことだろうか。

 遺骸に会えず、やっと再会を果たしたとき、亡き人は小さな骨壺に収まっている。

 そんな羽目に陥ったのは、決して新型コロナウイルス感染症の犠牲者だけではないはずだ。

 この仕事をしていると、いろんな切なくやるせない場面に遭遇する。

 そんなとき、ふと思うことがある。

 ごく一般の日本人にとって、宗教やスピリチュアルは、どのような位置づけなのだろうか。

 私は兄弟の中では末っ子で、文字通り目の中に入れても痛くないほど、祖父は私をかわいがってくれたらしい。

 しかし、私が祖父とともに写っている写真は、私が知る限り、たった一枚しか残されていない。

 まだ私が1歳くらい、よだれかけをしてちょこんと胡坐をかいて座っていて、その隣で浴衣姿の祖父が目を細めて微笑しながら同じように座っている。

 祖父が長く生きていれば私の記憶にもいくばくかは残ったのだろうが、祖父は私が2歳のころ他界した。

 私の中に、祖父との触れ合いの記憶は残っていない。

 しかし、祖父が亡くなった後も、私が大学に進学して実家を去るまで、ある理由で祖父の魂は常に私と共にあった。

 その理由のために、一時期はかなり両親に対して複雑な気持ちを持っていたが、徐々に受け入れられるようになった。

 これまでの人生で何度か不思議な体験や重要な岐路を経験した。

 そのたびに祖父の見えない手に導かれてここまで来れたような気がする。

 ハリー・ポッターにとっての両親、ジェームス・ポッターとリリー・ポッターのようなものだ。

 きっとこういうのを、スピリチュアルというんだろうな。

 じいちゃん、ありがとう。

 これからもよろしく。

 同居していた叔母を7年前に、父を6年前に亡くし、自ずと仏壇や墓前で手を合わせることが増え、宗教に対する考え方が少しずつ変わってきた。

 若いころは、

 「宗教なんて、結局患者が死んだ後にしか役に立たない、宗教家なんて、患者の生き死にに何の責任もないところでお金を稼ぐわけだし、客は増える(積み重なる)一方で減らないから、こんなおいしい商売はないよな」

なんて不信心極まりない考えを持っていた。

 あくまで仕事最優先で、お盆に帰省することなんてまずなかった。

 今でも、医者は現世利益のためにのみ存在する、という基本的な考え方は変わらない。

 しかし、治癒不能の肺がん患者さんに接したとき、宗教が心のよりどころになる、いくばくかは救われる、ということはあるような気がする。

 宗教的な理由で輸血ができない患者さんは、そもそもがん治療なんて受けない方がいいのでは、といつも思う。

 だけど、その同じ宗教が、きっと治療の道行きの中で、心の支えになってくれるのだろう。

 

 一般に宗教心が希薄な我が国。

 治癒不能の肺がんと診断されたとき、その心のありようは、宗教心篤い国の患者さんたちとは随分と異なるのではないか。

 大多数の国民が同じ宗教を信じている国や、宗教法人が経営母体となっている病院などでは、病院内に宗教施設があると聞く。

 進行がんの患者は、往々にして心のバランスを崩しがちだが、心のよりどころに宗教があり、治療の場から近いところに相談できる宗教家がいると、こうした患者は救われるのかもしれない。

 進行がんの患者ではないが、私が担当していた90歳を超える独居患者さんが、最近自宅に退院した。

 自宅の中を伝い歩きできる程度の身体能力で、果たして自宅退院して生活が成り立つのか、と心配で仕方がなかった。

 しかし、試験外出に立ち会ったリハビリスタッフや医療ソーシャルワーカーの話を聞いて、これはいける、と確信した。

 家の中で動作確認をして、さあ病院に帰りましょう、というとき、どうしても自宅から坂道を登ったところにあるお寺にお参りして帰りたいと、患者が切望したそうだ。

 聞けば、入院前までは毎日欠かさずお参りをしていたという。

 退院後もお参りしに行くのであれば、そちらも確認をした方がいいですね、でも誰か付き添いの方がいないとお参りには行けませんよ、と話しながら外に出ると、近所の方々がわらわらと現れたそうだ。

 「〇〇さん、やっと帰ってこれたねえ」

 「みんな待ってたのよ」

 「またお寺にお参りに行くのね」

 「一緒に行きましょうか?」

 「また毎日お話ししましょうね」

と口々に言っては、患者さんの手を引いてお寺へ導いていく。

 近所のおばちゃんたちの介護余力、おそるべし。

 ああ、この方は、お寺という触媒を介して、地域のみなさんと強いきずなで結ばれているのだなあ、なんて豊かな生活なんだろうと、スタッフみんなが感じて帰ってきたということだ。

 宗教は、他人同士をつなぐ助け合いの窓という一面もあるのだ。

 とはいえ、それぞれの宗教のイデオロギーの違いから論争に発展しがちなので、過度に宗教を礼賛するつもりはない。

 一方、先祖・家族を大切にする、ということであれば、世界中の誰もが共感できるのではないか。

 先祖がいて、頑張ってくれたからこそ、今の自分がある、そして家族があると考えて、先祖を思い、敬い、感謝する、そのくらいの価値観は共有していいのでは。

 私は毎週実家の仏壇で祖父母や叔母、父に手を合わせている。

 若いころとは違って、盆正月には必ず私と妻の実家に顔を出す。

 節目節目で墓参をする。

 私は曲がりなりにも仏教徒なのでそうするわけだが、日本古来の土着の神様にもときどき祈りを捧げ、コメとサケとモチをお供えする。

 それぞれの宗教的な立場で、それぞれのやり方に沿って、先祖と家族を敬えばそれで足りる。

 そうした姿を子供たちにも見せて、先祖を想い、家族をつなぐ、とはどういうことか、言葉ではなく行動で伝えたい。

 

 緊急事態宣言が解除され、制限がいくばくかでも緩められた今だからこそ、それが許される患者・家族には、互いに見つめあい、言葉を交わし、触れ合える幸せを分かち合い、生きて出会えた喜びの気持ちと絆を大切にしてほしい。