今日は肺がん診療とは直接関係のない、でも現代の肺がん薬物療法に関わる方には是非とも共有していただきたい、最近の私自身の辛い経験を記します。
この件に自分なりの気持ちの整理をつけるまで、診療実務以外のことに手を付ける気分になれませんでした。
オシメルチニブ(商品名タグリッソ)が登場したころからではないかと思いますが、しばしばがん薬物療法の有害事象として「QT間隔延長」が取り上げられるようになりました(タグリッソでのQT間隔延長発生頻度は6.1%)。
タグリッソの添付文書を見ますと「8.重要な基本的注意」の項に以下のような記載があります。
8.2 QT間隔延長があらわれることがあるので、本剤投与開始前及び投与中は定期的に心電図検査及び電解質検査(カリウム、マグネシウム、カルシウム等)を行い、患者の状態を十分に観察すること。また、必要に応じて電解質補正を行うこと
ほかにも、クリゾチニブ(3.2%)、セリチニブ(7.5%)、ロルラチニブ(6.5%)、ブリガチニブ(5%未満)、エヌトレクチニブ(1.2%)、セルペルカチニブ(14.5%)と、分子標的薬とQT間隔延長は切っても切れない関係にあります。
変わったところでは、非小細胞肺がん、胃がん、膵がん、大腸がんによる悪液質に対して使用されるアナモレリン(商品名エドルミズ)も同様(QT間隔延長を含む刺激電動系抑制作用は、エドルミズで10.7%)で、エドルミズの添付文書を見ますと「8.重要な基本的注意」の項に以下のような記載があります。
8.1 本剤はナトリウムチャネル阻害作用を有するため刺激伝導系に抑制的に作用する。本剤投与により心電図異常(顕著なPR間隔又はQRS幅の延長、QT間隔の延長等)があらわれることがあるので、本剤の投与開始前及び投与期間中は、心電図、脈拍、血圧、心胸比、電解質等を定期的に測定し、異常が認められた場合には、投与を中止するなど適切な処置を行うこと。
そんなわけで、QT間隔延長は分子標的薬その他の肺がん薬物療法を行うにあたり、注意すべき有害事象である、と一般に認識されていると思うのですが、ほとんどの呼吸器科医・腫瘍内科医は、単なる心電図上の異常であって、そんなに深刻なものではない、と考えているのではないでしょうか。
最近、担当していた入院患者さんがQT間隔延長を契機に致死的な不整脈であるtorsade de pointesおよび心室細動に陥り、そのまま亡くなってしまいました。
肺がんの患者さんではなかったのですが、QT間隔延長の恐ろしさが骨身に沁みました。
患者さんは後期高齢者男性で、自宅で奥さんと過ごしているときに突然心肺停止に陥りました。救急車を呼び、心肺蘇生をしながら、そのまま救急病院へ搬送されました。
診断は急性心筋梗塞に伴う心室細動で、どうにか一命をとりとめ、自宅復帰を目指したリハビリ目的で私のもとに転院して来られました。
以下に示すのは、入院時の心電図です。
II, III, aVF誘導に心筋梗塞後の変化を認めますが、少なくともこの時点ではQT間隔の延長はありません。
細かな測定値に言及すると、心拍数で補正したQT間隔の正常値は440msec(0.44秒)で、男性で450msec(0.45秒)、女性で460msec(0.46秒)を超える場合はQT間隔延長と判断するようです。
もっと実戦的に言えば、QT間隔がRR間隔の1/2の範囲内に収まっていればQT間隔は正常と考えてよいとされています。
転院後リハビリは順調に進み、行動範囲が広がっていました。
しかしある日、スタッフが本人を訪ねていくと、意識はほぼ消失、呼吸は止まりかけていたそうです。
全館一斉放送がかかり、従事中の業務の如何を問わず、院内の全ての医師が現場に呼び集められました。
胸骨圧迫(心マッサージ)を開始して、その後に気管内挿管を行いました。
自動電気的除細動器(AED)は心電図を自動解析し、繰り返し電気的除細動を要求してきます。
心電図モニターで波形を確認したところ、明らかに心室細動(VF)の所見でした。
全体として40分程度救命処置を行った段階でようやくVFを脱し、自己心拍と自発呼吸が復活しました。
環境を整えてひと息つくゆとりが生まれたため、十二誘導心電図をとってみたところ、こんな所見でした。
入院時の十二誘導心電図と比べると、ST部分が間延びした結果、QT間隔が延長しています。見かけ上は心拍は一定のリズムを刻んではいますが、心室細動再燃の危険はまだ残っていると感じました。
急変の連絡を受けて病院に来てくださったご家族に経過を説明したところ、
「もう十分お父さんは頑張った。人工呼吸とか、心臓マッサージとかこれ以上はせずに見守ってあげたい」
とおっしゃいました。そんな会話をしているさなかに、心電図モニターには次の危険を告げる兆候が記録されていました。
短時間ではありますが、「心室性の波形(幅の広いQRS波)が基線を中心にねじれたような形に見える、反復性心室頻拍の不規則特殊型」と表現されるtorsade de pointesが出現し、その後明らかに心拍が不整化し、11:38:37の波形は心室頻拍に移行しています。
そして、以下のように続きました。
先ほどよりも持続時間の長いtorsade de pointesが出現し、そこからVFに移行しました。
本来であれば再度心肺蘇生処置を開始すべき状況ですが、ご家族の意向を踏まえ、我々はただ見守ることしかできませんでした。
死亡診断からちょうど1週間して、入院経過を振り返る集まりを開きました。私、担当看護師、看護主任、看護師長、担当リハビリスタッフで自宅での急変から死亡退院までの流れを振り返りました。
がん終末期の患者さんとは異なり、急変の前後で天国と地獄と言ってもよいくらいに事態が急転しており、参加した誰もが現実を受け入れられず、参加者の8割方が悔しさのあまり涙し、コメントをしようにも言葉にならないような振り返りに終わりました。
QT間隔延長を放置していると、T波が下降して基線に戻っていく過程で心室性期外収縮が発生した場合にtorsade de pointesが出現するとされます。
そして、torsade de pointesを放置すると、心室細動に移行し突然死を起こします。
今回の11:43:18以降の心電図モニター波形は、典型例といっていいでしょう。
臨床症状は皆無なのに心電図上のQT延長の所見だけで肺がん治療薬を休薬、あるいは中止せざるを得ないこともあるかも知れません。
ご本人・ご家族も担当医療チームもこうした形での休薬、中止は受け入れがたいとは思いますが、QT間隔延長には本記事で記載したような危険が潜んでいることを、是非とも知識として持っておいてください。